引き続き、E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)を読み進める。
P29~36まで読了。
前回の記事では、まず「~したい」という願望があって、その後に思考が生まれる、ということについて書いた。今回読んだ内容は、何か新しい分野で人間の精神活動が行われ始めるとき、「~したい」が先走り過ぎて、その実現手段が軽視されがち、というもの。その歴史上の例と、意義について語られている。
例えば、十四、五世紀に大規模な貨幣経済システムが導入され、金に対する需要の高まりから、鉛を金に変えようとする錬金術師(れんきんじゅつし)という人々が現れた。ところが、彼らの関心の中心はもっぱら鉛を金にしようとすることで、そうしたことができるのかどうかなどということは軽視された。
また、十九世紀初めの産業革命は新しい社会問題を生んだが、それらの問題に取り組んだ社会主義者たちの提示したアイデアも非現実的なものだった。理想社会への希求が強すぎ、それを実現するために問題の本質が真剣に分析されるなどということはなかった。
ユートピア的社会主義者たちは、この問題およびこの問題に取り組むその必要性について人間を覚醒させたという点では価値ある仕事をなし遂げた。しかし彼らが提起した問題の解決策は、この問題を引き起こした当時の状況とは何の論理的関連もなかった。いま一度いうが、こうした解決策は、分析からではなく願望から生まれたのである。
(『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)P33より)
「~したい」が先走り過ぎてその実現方法がむちゃくちゃ、というパターンは人生においてもよくあることだ。
例えば、お金持ちになりたいという願望を抱き、ビル・ゲイツはフィレオフィッシュが好きだからフィレオフィッシュを毎日食べればお金持ちになれるはずだと考え、実際にそうする人がいるかもしれない。
あるいは、「イチローはカレーが大好きだからカレーを食べれば野球がうまくなる、カレー食え」とアドバイスする野球のコーチだっている可能性は否定できない。
注意すべきは、本書ではこうして願望が先走ってしまうことを悪くは言っていない点だ。それはそれで意義のあることであり、国際政治学という学問も戦争を起こしたくないという願望から誕生したのだ。
ただそれにもかかわらず、孔子やプラトンを政治学の始祖として、アダム・スミスを政治経済学の創始者として、またフーリエやオーエンを社会主義の開祖として尊敬することは全く正しい。目的を掲げて願望が強く出る初期の段階は、人間思考の本質的な基盤である。願望は思考の父である。
(同書P34より)
『危機の二十年―理想と現実』は国際政治に関する本だが、人間についての理解も深めてくれる名著だと思う。