E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』の感想(P37~39)~夢やぶれて夢への道が始まる~

スポンサーリンク

引き続き、E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)を読み進める。

今回はP37~39まで読了。

人が何かの実現を望むとき、最初は「~したい」という欲が先走り、現実や手段、方法に関する分析、思考は軽視される。

現実を無視した目的を達成するための構想はいずれ挫折する。夢が現実に直面して、いったん打ち砕かれるのである。

例えば、あるとき「悟りたい」という願望を抱く。

とにかく悟りたいという焦る気持ちから、真冬に滝に打たれれば悟れるにちがいないと考え、現実に関する思考や理屈抜きにそれを実行する。

その結果、風邪をひき、お医者さんに「風邪ですね、真冬に外で水なんて浴びたらダメですよ。お薬だしときますね」と言われる。

こうして、「悟りたい」という夢の実現は頓挫し、現実に謙虚に向かい合うことになる。

「悟り」とは何なのか、悟るためには何をすればよいのか、といったことについて分析や思考が始まるのである。これがリアリズムの始まりだ。

学問の発展過程では、思考が願望に与える衝撃は、この最初の非現実的な構想が挫折した後にみられるものであり、それはとりわけユートピア的時代の終焉を画するものである。すなわち願望に対するこの思考の衝撃こそ、一般にリアリズムと呼ばれるものである。

(『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)P38より)

とはいえ、ここでもカーは、夢見ること、理想を抱くこと、つまりユートピアを望むことを否定はしない。

夢を抱き、同時に現実と向き合いながら思考することが大事なのだ。

未成熟な思考は、すぐれて目的的でありユートピア的である。とはいえ、目的を全く拒む思考は老人の思考である。成熟した思考は、目的と観察・分析を合わせもつ。こうしてユートピアとリアリティは、政治学の両面を構成するのである。健全な政治思考および健全な政治生活は、ユートピアとリアリティがともに存するところにのみその姿を現すであろう。

(同書P39より)

こう書かれると何やら難しげだが、ある程度の人生経験を積んだ大人なら多くの人が身をもって理解していることだろうと思う。

比喩的に言えば、柿の種のピーナッツは大事だけど、あられも必要だよね、ということだ。(わかりにく!)

『危機の二十年―理想と現実』は、ナイフのように冷徹で、それでいて人間の本性を否定しない優しさもある、名著。