楊貴妃の死因は謎だらけ、死なずに日本に渡来した?実は熱田神宮の神様だった?
今日头条(中国)というアプリの艺述史というチャンネルで楊貴妃の死について考察した動画を見ました。
楊貴妃といえば、世界3大美人の1人で、唐の玄宗皇帝を骨抜きにして国を傾かせた人物です。
もともと楊貴妃(幼名は楊玉環)は玄宗皇帝の息子、寿王瑁(まい)の妃でしたが、玄宗皇帝が彼女を気に入り、自分の女にしました。
彼女は、皇后に次ぐ位である貴妃の称号を与えられ、楊国忠をはじめ、その一族は出世していきます。
一般的には、楊貴妃は、安史の乱で玄宗皇帝とともに四川への逃亡の途中で、彼から死を賜りその生涯を閉じたことになっています。
国が乱れたのは楊貴妃が原因と考えていた玄宗皇帝の配下の人々が彼にそうするよう迫ったのでした。
彼女を愛していた玄宗皇帝のその時の悲しみは、白居易の長恨歌という詩に描かれています。
君王面(おもて)を掩(おお)いて救い得ず
回り看れば血涙相和(あいまじ)りて流る
皇帝は手で顔をおおったまま、殺される楊貴妃を救うすべもない。
振り返る皇帝の顔には、悲しみのあまり、涙が血とまじりあって流れ落ちる。
(『漢詩鑑賞事典 』(講談社学術文庫)P428より。フリガナなどは一部省略)
具体的には、玄宗皇帝の右腕だった宦官の高力士が、白い絹の紐で彼女を締め殺したとされています。
場所は、馬嵬(ばかい)(現在の陝西(せんせい)省興平県)です。その時の楊貴妃の年齢は38歳です。
動画では、この点についてある疑問を持ち出します。
それは、もし楊貴妃が絞め殺されたのなら、長恨歌の中の「血涙相和りて流る」に見られるように、なぜ「血が流れる」などという表現が出てくるのか、というものです。
そして、それと似た詩として他にもいくつか紹介しています。
杜甫の『哀江頭』では、
血汚遊魂帰不得
血で汚れた彼女の魂はもう帰ってくることができない
と記述されます。
杜牧の『華清宮三十韻』でも、「楊貴妃は禁軍の兵士たちの槍によって死んだ」と解することができる「喧呼馬嵬血、零落羽林槍」という記述が見られます。
他にも例が挙げられていますが、ここまでにしておきます。
さて、このように、一般的には玄宗皇帝から死を賜り、高力士によって手を下されたことになっている楊貴妃ですが、どうも血の匂いがプンプンとするわけです。
もちろん、真相は謎のままですが、各資料から想像を巡らし、色々な可能性を考えることができると思います。
多くの人が想像の翼を広げた結果、楊貴妃は実は死んではおらず、その後日本に渡ったという伝承まであります。
実際、山口県長門市の二尊院には、楊貴妃の墓と言い伝えらているものが存在するのです。
楊貴妃は、実は愛知県名古屋市にある熱田神宮の神様であるという話もあります。
当時、玄宗皇帝に日本を攻める野心があるとみた熱田の神様が、楊貴妃に化けて玄宗皇帝に仕え、その政治を怠らせて安史の乱を引き起こしたというものです。
と、楊貴妃の最期について書いていくとキリがありませんね。
楊貴妃の生涯や、その日本渡来伝説については、村山吉廣の『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』(講談社学術文庫)が詳しいです。250ページほどの薄い本ですが、中身は濃く、面白いです。
参考:今日头条「艺述史 【杨玉环命丧马嵬坡,是被高力士勒死的?后人或被蒙骗了千年】」