『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』(村山吉廣著)の第2章を読んだ感想~玄宗皇帝がスケベである3つの理由~

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『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』(村山吉廣著)の第2章を読了しました。

第2章では、楊貴妃の出生から玄宗皇帝に見初められるまでのこと書かれています。ここまでの楊貴妃に対する印象は、「普通の女の子」です。幼名は玉環(ぎょくかん)で、成人前に父母を亡くし、叔父の楊玄キョウに引き取られています。

楊貴妃については、様々な逸話があります。逸話によっては非現実的な要素も含みますが、それを除いて常識的に解釈すれば、人間味溢れる楊貴妃の姿が浮かび上がります。それらの逸話によれば楊貴妃は、

・ライチが好物で南方から特急便で取り寄せていた

・暑がりで、夏はいつも薄着だった

・初めて恩招を受け父母と別れる時、涙を流して車に乗った

となっています。

17歳の時の彼女は、「黒髪雲ノゴトク、皮膚雪ノゴトク白ク、挙止ハ漢の武帝李夫人ノ風度アリ」(P55)とされますが、悪女のイメージはありません。

一方、玄宗皇帝はその行為だけ見てスケベだとわかります。もちろん男は本来総じてスケベなので、正確にはその種の欲を自制すること知らなかったということです。

まず第1に、玄宗皇帝には男30人、女29人、計59人の子供がいました。これは唐代の皇帝の中で一番多いです(P49)。こうなると、子供の中で「アタシ、あの兄ちゃんとはあんましゃべったことない」みたいなこともあるでしょうね。

第2に、『旧唐書』によると、玄宗皇帝は「花鳥使」を派遣して国中から後宮に入れる美女を探させていました。(P58)

玄宗皇帝は子だくさんなので、花鳥使が誤って彼の娘を連れてきて、

玄宗皇帝「こいつはわしの娘やないか!」

娘「お父様?」

と、気まずい空気も流れたかもしれません。

第3に、玄宗皇帝は、温泉宮へ行幸の際、息子である寿王李瑁(りぼう)の妃となっていた玉環(のちの楊貴妃)を一目で気に入り、のちに自分の女としています。温泉宮において玄宗皇帝が玉環に一目惚れしたとき、彼は56歳、彼女は22歳です。年齢差34年(P59)。

花鳥使によって国中から美女を集めているにも関わらず、玄宗皇帝が惚れ込んだのはよりによって自分の息子の女。人間の、あるいは朝廷の闇を感じた第2章でした。

皇帝がどの女性を好くか嫌うかで大き動くのが当時の政治。その模様がよくわかる1冊で、おすすめです。