楊貴妃は逸話や唐の時代の絵画から肥満体だったとされるが本当だろうか?唐詩から検証!

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今日头条というアプリの艺述史で、楊貴妃(幼名は楊玉環)の容姿について解説した動画を視聴。

楊貴妃(ようきひ)は、唐王朝の玄宗皇帝の妃で(もともと息子の女だったが、奪った)、美人として有名な人物だ。

美人ではあったが、太っていたといわれる。それゆえ、唐の時代には太った女性がよいとされていたのだと多くの中国人は考えている。

しかし、動画ではこの点について、いくつかの史料をもとに否定している。

楊貴妃の肥満については、次のような逸話が残されている。

貴妃に立てられてからの宮中での話であるが、生来暑がりだった彼女は夏はいつも軽いうすものの衣を着ていた。しかし侍児がかたわらから一生懸命に扇で風を送っても一向に涼しくならない。そこで皮膚から汗が流れ出るのを見ると、それはまるでピンク色のローションのようであり、しかもすごくよい香りがした。

(村山吉廣『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』P48)

楊貴妃が肥満体だったといわれるよになった理由の1つとして、動画では当時の絵画『侍女図』を紹介する。

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(動画00:36より)

そこには多くの、顔が大きく、図体の大きい侍女が描かれている。

しかし、唐の時代の詩を調べてみたところ、そこにはこれっぽっちも肥満愛がみられないという。例として、杜甫の『麗人行』の一部を紹介している。動画の中の引用は中国語なので、該当部分を日本語サイトから引用。

態濃意遠淑且真  態(たい)は濃(こまや)かに意(い)は遠く淑(しゅく)にして且(か)つ真(しん)

肌理細膩骨肉勻  肌理(きり)は細膩(さいじ)にして骨肉(こつにく)は勻(ひと)し

現代語訳

姿は艶やかで、奥ゆかしく、 内面から湧き出す自然な美しさがある。 肌のきめは細やかですべすべしており、 骨と肉の具合がほどよく調和している。

麗人行 杜甫 漢詩の朗読より)

楊貴妃は、皇帝の寵愛を受けるために美を愛したにちがいなく、歌と踊りに秀でた彼女のスタイルが劣っていたはずはないという。楊貴妃は骨と肉のバランスのとれた体型だったのだ。

また動画では、楊貴妃自身の詩も紹介されており、そこでは女性の弱々しくほっそりとしたスタイルが讃えられている。

輕雲嶺上乍搖風、  軽雲 嶺上 乍(たちま)ち風に揺らぎ

嫩柳池辺初拂水。  嫩柳(ドンリュウ) 池辺 初めて水を払う

現代語訳

山上の千切れ雲が忽ち風に揺らぎ、 池のほとりの若柳の葉が初めて水を払う。

閑話休題250 句題和歌 9 白楽天・長恨歌(3) - 愉しむ漢詩より)

「嫩柳(ドンリュウ) 池辺 初めて水を払う」はもちろん、柳のようにきゃしゃで若い娘が、長い袖を払って踊る姿の比喩表現だ。

さらに続けて、李賀の詩『将進酒』の一部が紹介される。

吹龍笛  竜笛(りゅうてき)吹き

撃鼉鼓  鼉鼓(だこ)を撃つ

皓齒歌  皓歯(こうし)歌い

細腰舞  細腰(さいよう)舞う

現代語訳

竜の声の笛を吹き、ワニ皮の太鼓を打ち、白く輝く歯を見せて歌う女、ほっそりと形のよい腰で舞う女。

『漢詩鑑賞事典』 (講談社学術文庫)P512 フリガナ一部省略)

以上から、唐の人々が好んだのは、肥満体ではなく、やはり細い腰と長い脚のスタイルの女性だったのだと、動画では結論付けている。

そして楊貴妃については、今の人々が考えるような肥満体ではなかったとする。肉の付くべきところにはついた、いわば豊満なスタイルだったのだ。

→フランスの哲学者パスカルは随筆『パンセ』の中で、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていただろう、というようなことを書いている。

これが楊貴妃のことであれば、楊貴妃が本当にデブだったら世界の歴史は変わっていただろう、ということになるのかもしれない。

というのも、楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受けたことで彼女の一族が政界に進出し、その一人である楊国忠(ようこくちゅう)と安禄山(あんろくざん)の対立が安史の乱に繋がっていくからだ。

安史の乱により、唐の中央集権体制は崩れ去ってしまう。

ちなみに、安史の乱を起こすことになる安禄山は、玄宗皇帝と楊貴妃に取り入って、子供のいない彼女の養子になったとされている。

そんな彼は、腹が膝の下にまで垂れるほど超肥満体だった。玄宗皇帝はある時、その太鼓腹には何が入っているのか、と安禄山に尋ねた。すると彼は、「真心のほかは何も入っておりません」と答えたという。

楊貴妃の生涯については、講談社学術文庫の『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』に詳しいので、興味のある方はどうぞ。

 

参考「今日头条【唐朝美女都是胖子?小胖子们别天真了,你喜欢什么身材呢?】」