敏達天皇ー仏教と二人の部下の権力闘争に振り回された苦労人
敏達天皇陵の入口
昨日、天気があまりに良かったので、敏達天皇陵(びだつてんのうりょう)を巡ってきました。
古代の飛鳥時代(あすかじだい)の天皇で、572年から585年まで在位しています。
中学校や高校で彼について詳しく学ぶということはないと思いますが、今の感覚だとびっくりするような政策を行った人です。
守屋の助言により、仏教は禁止され、寺や仏像が焼き払われた
日本に仏教が入ってきたのは538年 (仏教伝来ご参拝(538)の語呂合わせが有名)。
敏達天皇はちょうどその頃に生まれました。
仏教が日本に伝来して素直に受け入れられたかというと、そうではなく、相当な論争や拒絶反応がありました。
それを象徴するのが、当時の天皇の二人の補佐役、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の対立です。(受験生の方は、「そがのう◯このもりやわせ」で覚えてください)
馬子は仏教支持派、一方、守屋は仏教反対派。
ある時、疫病(えきびょう)が流行り、守屋は敏達天皇に「疫病は外来の野蛮な仏教を崇拝したのが原因、禁止すべし」というような助言をします。
この助言が受け入れられ、敏達天皇は仏教の禁止を命じ、守屋の手によってお寺や仏像が焼き払われました。
馬子の求めにより、仏教が限定的に許可される
しかし、仏教を禁止しても疫病はおさまりませんでした。
仏教支持派の蘇我馬子も疫病にかかっており、敏達天皇に仏教の崇拝を許可するよう求めます。
敏達天皇は再び仏教を限定的に許可。
実は最初に仏教が許可されたのも馬子による働きかけによるものです。
要するに、敏達天皇は馬子の働きかけで許可、守屋の働きかけで禁止、再び馬子の働きかけで限定許可、というふうに二人の補佐役に振り回されるかたちになっていました。一見、仏教の扱いをめぐるバトルですが、その実態は馬子と守屋の権力闘争と考えられています。
馬子「仏教って素敵よね、あなた許可して❤️」
敏達天皇「ああ、キミが言うからにはさぞかし素敵なのだろう。いいよ、許可しよう」
守屋「仏教なんて嫌いだわ。人が疫病に苦しむのもみんな仏教のせいよ。お願い、禁止して❤️」
敏達天皇「そうだね。キミの言う通りかもしれない。いたいけなキミの言葉には逆らえない。禁止しよう」
馬子「お寺や仏像を焼き払うなんてあんまりよあなた。お願い、どうか仏教を受け入れて❤️」
敏達天皇「たしかにやりすぎたかもしれない、本当にすまなかった。大切なキミに限って仏教の信仰を許すことにしよう」
イメージとしては、こんな感じでしょうか。
まあ馬子と守屋も男なんですが。
敏達天皇陵
余談ですが、面白いエピソードを一つ紹介します。
当時、天皇が亡くなると、埋葬されるまでの間、一時的に殯宮(ひんきゅう)と呼ばれる場所に遺体が安置されました。天皇の死をとむらい、別れをしのぶ場所です。
敏達天皇の後継者は異母兄弟である大兄皇子(おおえのみこ。用明天皇となる。)に決まりましたが、それを不満に思ったもう一人の異母兄弟がありました。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)です。
彼は、殯宮にいた敏達天皇の皇后(正妻)である炊屋姫(かしきやひめ)を犯そうとしました。
結局、これは敏達天皇の側近だった三輪君逆(みわのきみさかし)によって阻止されましたが、亡き夫の霊前でその妻を犯そうとするとは、穴穂部皇子もなかなかヤバイ。
ちなみに、ヤバイ穴穂部皇子のお姉ちゃんである穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の産んだ子が、いわゆる聖徳太子です。(聖徳太子は現在では厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていますが)。
イノシシ出没の注意書き
ここで出没するイノシシは、敏達天皇の妻を犯そうとした穴穂部皇子の怨霊とも言われています。
というのは真っ赤なウソです。
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