引き続き、E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)を読み進める。
今回は、P76~85を読了。
内容は、国際連盟における世論の神格化。つまり、国際連盟設立当時は、世論の力が過大に評価されていた。
極めて重要なことだが、国際連盟という考えそのものは、最初から一対の信念と固く結びついていた。つまり世論は必ず勝利すべきものであること、そして世論とは理性の声である、ということである。
(『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)P81より)
世論の力というのは、日本のいわゆる同調圧力に似たものだと思う。
その力にこれだけ高い評価が与えられたのは、世界の歴史上それなりに意義のあることだろう。
しかし、その力が過信されすぎ、制裁の必要性までも軽視される結果になった。
具体的な制裁という難しい問題については、まずアメリカ側がこれに不承不承取りかかり、イギリスもまたアメリカとほぼ同じようにしてこれに取り組んだ。タフトの場合と同様、アングロ・サクソンの世論は、問題のこの側面については「極めて無関心」であった。なぜなら、制裁の必要性を認めることは、それ自体、合理的な世論の有効性を主張するユートピア的理論の面目を汚してしまうことになるからである。連盟における全会一致の決定が無視されることなど、考えも及ばなかったのである。
(同書P82より)
強力な同調圧力のある日本でも警察力が不可欠であるように、世論の力だけで国際社会で発生する各種の紛争を抑止、解決することは難しい。
面白いのは、この日本の同調圧力にも似た力、世論の力の限界を露見させるのがどうやら日本であるらしいことだ。
しかし世論が極めて重要な武器であるという主張は、諸刃の剣である。一九三二年満州の危機にあたって、才気煥発のジョン・サイモン卿は、他のいかなる行動も必要のないことを示すために、世論という武器を使った。彼は下院でこうのべる。「確かなことは、世論すなわち世界の意見が、確固たる道義的非難を表明するに十分なほど満場一致の結束をするなら、制裁などいまさら必要はない、ということである」。ベンサム流ないしウィルソン流の前提が与えられれば、サイモンのこの言明は論破できないものであった。もし世論が日本を迎えることに失敗したなら、セシル卿が一九一九年にのべたように、「すべてのことが間違っている」のである。
(同書P85より)
これは世界史における世論バブルなのだろうか?
そのバブルを弾けさせるのは日本なのだろうか?
気になるが、続きはまた今度。
『危機の二十年―理想と現実』は中身の濃い本なので、ゆっくり精読するのに適している。
国際政治に興味のあるすべての人に読んでほしい。