小説『わたしを離さないで』の感想〜脳内フェイクに振り回されるリアルな人間関係を巧みに描いた傑作〜

『わたしを離さないで』を読了。2017年にノーベル文学賞を受賞した日系イギリス人であるカズオ・イシグロ氏の小説である。

以下、一部ネタバレ含みます。

原書で2回、日本語訳ではこれで2回読んだ。なので、合計4回読んだことになる。4回も読んだのはもちろん、好きな小説だからである。世界観というか、雰囲気に惚れている部分がけっこうある。ジブリの『千と千尋の神隠し』のように、「ああ、あの世界にまた浸りたい」と定期的に思わせる独自の世界観や雰囲気があるのだ。雰囲気で結婚相手を選んだらろくなことにならないが、小説を楽しむ分にはそんな心配はいらない。

ただし、読むのはちょっと疲れる。キャシーという名の女性の回想形式で静かに淡々と語られる。小さい音量でひたすら夕方のN◯Kニュースを見続けているかのような気分になってこないでもない。でも、独自の雰囲気が心地よいので、読み進められる。

もう一つ、疲れる要因だと思うのは、たぶん語り手キャシーのユーモアの欠如である。いや、「ここ笑うとこでっせ」という感じで、あるシーンを語ったり、冗談を挿入したりするのだが、それが全然面白くないのである。でも真顔でいるのはキャシーに気の毒なので、「こんな面白い話はない」という風に首を振りながらおでこに手をあてて笑い、肩をすくめてあげる。一人で本を読みながらそんなことをしていると、バカみたいで本当に笑ってしまう。

物語は、語り手キャシーとその友人のトミーとルースを中心に語られる。 彼女(彼)らはみな臓器提供のために、この世に誕生した。その使命まで、ヘールシャムという施設で、保護官と呼ばれる人々の監督下で、様々な教育を受ける。一見普通の学校生活に思われるが、キャシーらの未来に普通の人が歩むような道ーー結婚し、子供を持ち、家庭を築くという道ーーはない。

と、こう書くと「こうであるかもしれない未来の恐ろしい世界を描いた衝撃作」とでも紹介しなあかんような空気になってくる。が、個人的に、この小説の臓器提供うんぬんという部分にはあまり関心がない。大事な問題だが、あくまで娯楽として小説を読んでいるので、こういう読み方もありかな、と思う。

リアルで心に迫るのは、この作品で描かれる、キャシー、トミー、ルースの3人の微妙で危うい人間関係だ。キャシーは常識的で比較的真面目な女性、トミーは鈍感でちょっと風変わりな男、ルースは嘘つきでサイコパスの傾向があるがリーダーシップのある女性である。3人の関係は、親友であり、恋人である。誰が誰と、というのはちょっと言えない。

些細なことですれ違ったり、仲直りしたり、抱きしめ合ったり、その描き方が見事なのである。リアルすぎて、こんな面倒な人間関係の模様を何でわざわざ金を払って疑似体験してるのか、という気がしないでもない。が、結局中心にあるのは「暖かいもの」なので、そこのところにもふもふしたり、感動したりする。

本作で描かれる人間関係を危うく揺り動かすのが、個々の人物の脳内フェイクである。妄想と言ってもいい。そこをきっちり描いているので、リアルで心に迫るのかもしれない。例えば、多くの場合、人間関係を不可逆に危うくするのは、「どつくぞボケがっ!」、「どついてみろやクソがっ!」というマッチョなバトルではない。むしろもっと普通のやりとりの中で当事者の妄想が膨らみ、疑心暗鬼に陥る場合である。

例えば、さきちゃんとゆうこちゃんという親友関係の2人の女の子がいるとする。

さきちゃん「ゆうこちゃんって絶対ショートカットの方が似合うと思うー!!!ショートカットにしちゃいなよ〜!絶対そっちの方がモテるよ!!」

ゆうこちゃん「そうかな〜。男に間違われないかなぁ?」

この時、ゆうこちゃんの脳内では、あるフェイクが形成されるのである。

ゆうこちゃんの脳内「さきちゃんは笑顔でこんなこと言ってるけど、実は私がさきちゃんより男にモテるのを阻もうとしているのかもしれない。私は明らかにさきちゃんより素材がいいから、ダサいショートヘアにして貶めようとしているのだろう。ちっ」

さきちゃんにそんな意図があったかどうかはわからない。しかし、このようにゆうこちゃんの脳内で根拠のないフェイクが形成されると、彼女のさきちゃんに対する態度も変わる。報復である。

ゆうこちゃん「ところでさきちゃんさあ、昨日わたしLINE送ったのになんですぐ返事くれなかったの? え、既読無視とかー?www」

さきちゃんの脳内「え、なに急に。バイト中やっただけやし。なに笑っとんコイツ。なんかムカつくんだけど」

このように、何でもない一言が、相手の脳内によからぬフェイクを形成させることによって、人間関係は危うく揺らぐ。大っぴらに問題発言や行為があったわけではないから、余計に問題の解決を難しくする。

リアルな人間関係ってこういうものじゃないだろうか?

『わたしを離さないで』は、その模様を見事に描いている。

でも、今回の一連のことは、すべて一方のほのめかし、他方の思い込みです。表面的には二人の間に仲違いもありません。存在しないはずの問題をどう話し合えば解決できるのか、わたしにはその方法がわかりませんでした。

(本書P97より)