E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』の感想(P42~45)~理論と現実の相互依存の認識の上に築かれる政治学~

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引き続き、E・H・カーの『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)を読み進める。

P42~45を読了。

ここでは、ユートピアンとリアリストがそれぞれダメ出しをされ、それぞれが相互に関わり合うことの重要性が説かれる。

ユートピアンは目的をあたかもそれがあるべき事実かのように扱う。例えば、アメリカ独立宣言の「すべての人間は平等につくられている」(P42)のように。

リアリストにとってみればこれは「特権階級のレベルに自分たちを引き上げようとする下層階級のイデオロギー」(P43~44)である。

リアリストにとっての目的は運命のようなもので、理論はそれを説明するツールにすぎない。

理論は現実から生まれ、現実を変えていく力を持っているが、リアリストはその力を認めない。だからリアリストは一種の運命論者である。

ユートピアンは理論を過大評価しており、リアリストは逆に過小評価しているといえるだろう。

ユートピアとリアリティの対立はまた、理論と現実の対立に符号する。ユートピアンは政治理論を、政治の現実が従うべき規範であるとする。リアリストにとって、政治理論は政治的現実の一つの体系化である。

(『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)P42より)

語学の勉強をしていると、こういうことはよく理解できる。

文法は本来、その言語の現実での使われ方を観察、分析して導き出された一連の法則である。

言語の現実がまずあって、そこから文法が生まれる。

にもかかわらず、いつのまにか文法が言葉の現実を規定するようになる。「その使い方、文法的に間違いだよ」、と。

今回読んだ部分では最後に、理論と現実の相互依存を認識することの重要性が説かれている。

政治学は理論と現実の相互依存を認識し、その認識の上に築かれなければならないのである。しかもこの理論と現実の相互依存は、ユートピアとリアリティの相互関連があって初めて得られるものなのである。

とどのつまり、甘いピーナッツと辛いあられで構成されるような、一種の柿の種性の理解が重要であるということである。

政治学は、甘い夢と辛い現実の相互の交わりを認めた上で築かれるべきなのだ。

『危機の二十年―理想と現実』(岩波文庫)、今回読んだのはほんの数ページだが、学びは多かった。中身の濃い本だと思う。