『蘇軾 その詩と人生』(海江田万里著)の第6章を読了しました。
前回の記事で、蘇軾が黄州での事実上の流刑生活を終えたことについて、ロビンソンクルーソーが無人島からの脱出に成功したときのように名残惜しいと感想を述べました。
ところが、今度は本当にロビンソンクルーソーのようになってしまいます。
旧法党の人々を重用した高太后が元祐8年(1093年)に亡くなり、哲宗皇帝の親政の中で新法党の面々がクーデターによって力を盛り返しました。旧法党に属する蘇軾は、再び左遷されてしまいます。
中国北方(現在の河北省定県)の定州知事に左遷されたかと思えば、任地へ向かう途中で中国南方の英州(現在の広東省永徳県)への転勤命令が下ります。さらに英州に向かう途中で、恵州(現在の広東省恵陽県)に流刑に処されます。
もちろんこの乱暴人事は、旧法党からの嫌がらせです。
一方の当の蘇軾は、恵州でよく採れる茘支(れいし、ライチ)がいたく気に入り、『食茘支』という詩の中で「こんなうまいもんあるなら広東にずっといていい」というようなことを書いています。
そんな感じで恵州での生活を割と楽しんでいることが、監視役の役人によって中央政府に報告され、宰相であった章惇(しょうとん)により海南島送りにされてしまいます。
海南島は今でこそ観光地ですが、当時は少数民族が住む、蛮地です。蛮地は蛮地でも島なので、そこへ流された蘇軾の境遇は、ロビンソンクルーソーのそれに近いものがあります。
海に囲まれた島で嘆息する蘇軾ですが、当時のある書簡で彼はその楽天性を発揮します。
「考えてみたら、世界は大きな海の中にあるし、中国だってその中の小さな海の中にある、みんな島じゃないか」という発想に至るのです。
教養を駆使して、自らの境遇を一度客観視し、ポジティブな見方に転換する、その柔軟な姿勢は、素晴らしいです。
そういう彼の楽天志向は蘇軾を語るときによく指摘されます。でも実は、左遷や流刑先にある自然に囲まれた生活が、彼は案外好きだったのではないでしょうか。
つらいことも多いですが、それでも美味しく新鮮な食べ物があり、風光明媚な環境があるという好ましい面もあります。だからこそ、彼も絶望せずにいられたのではないかと感じた第6章でした。
蘇軾と一緒に中国各地の風光明媚な場所を旅してる気分になる一冊で、いいですよ。