昔から考えていたことですが、語学書の例文って、どういう文脈でそう書かれたのか、あるいは言われたのか、気になりませんか?
僕はずっと気になっていました。だいたい想像がつきそうなものも多いけれど、どういう状況でこんな言葉が出てきたんだ、と不思議に思うようなものもよく見かけます。
でもいちいち、これはどんな状況で出てきた言葉ですかと出版社に問い合わせる訳にもいかないので、仕方がなく、自分で想像してみることにしました。
そうすればそれ以降、その例文に関しては納得して読め、暗唱もしやすくなると思ったからです。
今日は、その試みの第一弾です。例文は『ロングマン英和辞典』からです。
Either you apologize, or I leave.
あなたが謝らないんだったら, 私が出ていくわ.
(『ロングマン英和辞典』P507「either」の項より)
☆☆☆
「あなたが謝らないんだったら、私が出て行くわ」と彼女は唇を震わせて言った。
近くに花瓶があれば床に投げつけかねない剣幕だった。
「君が謝らないんだったら、僕が出て行く」と僕は努めて落ち着いて言い返した。
僕だって怒っているのだ。生卵をゆで卵と間違って出してしまったくらいで頬をぶたれたらそりゃ誰だって怒る。
「なんでわたしが謝らなきゃならないのよ!」
彼女はそう言って猛ると、くるりと背を向け、リビングから出て行った。そして少しして玄関のドアが勢いよく開けられる音がした。わずかに間があってドアが閉まった。
沈黙が家の中を満たした。空中に舞う家中の埃が床に着地したのがわかった。同時に、こんなにも多くの埃が舞っていたという事実に僕は少々驚かされた。が、そんなことに驚いている時ではなかった。
彼女が謝らずに出て行ったので、僕も出て行かざるを得ないのだ。
慣れない少年忍者のようにそっと玄関のドアを開けて外に出てみると、「わたしは今怒っています」といった感じで腕を組んだ彼女がこちらに背を向けて立っていた。僕は「いま会いに行きます」といった感じでその後ろに立っていた。
表情はわからなかったが、だいたいどんな感じかは想像がついた。表向きは怒ってはいるが、内心では次の行動の選択肢が思い付かず困っているときの表情だ。
幸い、対話の門戸はまだ閉じられてはいないようだった。少しの沈黙があった後、彼女は、顔を背けたままではあるが、(おそらく)僕に言葉を投げかけた。
「どうして出てきたの」
「君が謝らなかったから」
言い終えると同時に自分の失言に気が付いた。火に油を注ぐとはまさにこのことだ。もしも僕が孔子の弟子であったとしたら、ここでは「君を愛してるから」と言うべきだったと、あとで先生からお叱りを受けることだろう。
蒼天の彼方で引火する音が聴こえたような気がした。延焼注意、ピピーピピー、延焼注意ピピーピピー。
彼女はゆっくりと、こちらに向き直った。そして僕の顔をじっと見つめた。確かに、周りの空気の温度が一瞬下がった。
僕は、刺されるのではないかと思い、体中のスポットというスポットにじっとりとした嫌な汗をかいた。遠くでスズメの鳴く声が聞こえる。今だけ僕は遠くで鳴くスズメになっていたかった。こんな時に限ってスズメに注意が向くというのは、考えてみれば不思議なことだ。昔・・・大昔・・・、そう、たとえば平安時代の人々は日頃からもっとスズメに関心を持っていたはずなのだ。でも今は―――
「あなたが謝らないんだったら、わたしが家に入る」
ややあって彼女が口にしたのは、こんな意外な言葉だった。拍子抜けするほど意外な言葉だった。しかしその顔には決然とした表情が浮かべられていた。
僕は不覚にも一瞬、声に出して笑いかけたのだが、同時にまずいと思った。決然とした表情になった女はマジなのだ。それは取れてしまったドアノブみたいなもので、1ミリの望みも与えてはくれないのだ。
取れてしまったドアノブについて考えていたためか、僕はまたしてもとんまなことを口にしてしまった。
「君が謝らないんだったら、僕が家に入る」
言ってからすかさず彼女と同じような決然とした表情を、僕は装った。実際のところ、「僕が」のあたりで自分でも思わず顔が緩みかけた。しかしこちらにもプライドがあるので、こぼれそうになった笑いを飲み込むようにして抑えのである。
ボクサーとプロレスラーが対峙したような空気が流れた。
ごめん
え、と僕は言った。実際に声に出して言ったのかは、自分でもわからなかった。
「ごめん」と彼女は僕の顔をじっと見つめながら、もう一度繰り返した。
僕の思考のエンジンがゆっくりと駆動をし始めたところで、彼女はさっと僕の横をすり抜けていった。そして玄関のドアが開くガチャリという音が背後で聞こえた。開けられたドアは正常に、それ自身の力で、また閉まったようだった。
本能的に自分が負けたことがわかったが、その理由を把握するのにはしばしの時間を要した。
「君が謝らないんだったら、僕が家に入る」と僕はいつの間にか目の前に現れた猫に向かってつぶやいた。近所で時々見かける、とろろ昆布のような毛色を持った野良猫だった。
その一匹の野良猫と僕はしばらくの間、じっと互いの顔を見合わせていた。日曜日の、まだ朝の7時を過ぎた頃のことだった。