大人が本気で読書感想文を書いてみた。~夏目漱石の『こころ』の冒頭数ページを読んで~

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タイトルの通りです。

でも、一冊分の読書感想文を書くとどうしても漠然とした一般論になりがちで面白くないので、冒頭の数ページだけ読んで書きました(過去に何回か通読したことはあります)。

続きに関しても、少しづつ書いていこうかなと考えています。

ではとりあえず、『こころ』の冒頭数ページ(笑)の読書感想文です。

☆☆☆

夏の太陽の光と鎌倉の海が、その大きな懐(ふところ)で、無数の男と女を遊ばせていた。熱く乾燥した浜辺の砂の無慈悲が、冷たい海水のありがたみを際立たせてくれる。思い切ってざぶんっと海の中へ飛び込んでみると、暑さからくる体のだるさも、一瞬で、忘れさてくれた。

もちろん、僕の夏休み体験ではない。夏目漱石の『こころ』の冒頭シーンを頭の中で勝手に膨らませたイメージだ。

この小説の冒頭は、語り手である「私」が、書生だった頃を回想するかたちで始まる。「私」は、暑中休暇に海水浴をしていた友人にハガキで誘われ、鎌倉へ向かう。しかし、鎌倉へ着いて3日と経たない内に、その友人はすぐに国元に帰ることになった。「私」は一人で海水浴をして過ごすことになる。

今でいえば、「インスタ映え」ということになろうか。「私」の目の前は、海水浴という明治に入ってから広まったまだ当時としては年若い行楽(あるいは転地療養)に来た人々で賑わっていた。

私は毎日海へ這入(はい)りに出掛けた。古い燻(くすぶ)り返った藁葺(わらぶき)の間を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺にこれ程の都会人種が住んでいるかと思う程、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。

(『こころ』夏目漱石著P9より 新潮文庫)

文豪、夏目漱石が描く「まだ若々しい書生」の目が食い付いたのは、眼前を行き来する、都会から繰り出てきたぴちぴちギャルたちの姿ではなかった。ここで、大多数のオスの読者を裏切るように、書生である「私」の目は「先生」の姿を捉えたのだ。

私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付出したのである。

(同上)

この一文は、映画の冒頭の「つかみ」のように、僕だけでなく、多くの読者、特に男性の読者に意外感を与えることだろう。ささやかではあるが、確かな驚きである。

なぜかぴちぴちギャルが向こうから近づいてきて、ウィットに富んだ会話をしているうちに一つのベッドで一緒になる、というような村上春樹的な物語展開とは一線を画している。

それはそれとして、鎌倉の夏の海岸における「私」のこの意外な目の付け所に、僕は注目したい。

情報化社会と言われるようになって久しく、僕たちは情報の獲得という点で飛躍的に豊かなになった。しかし、有益な情報に瞬時にアクセスできるようになった一方、愉快ではあるがある意味で空虚(くうきょ)な情報の誘惑にほとんど常に晒される、という事態にもなった。それはあたかも「私」が訪れたぴちぴちギャルが多くいるであろう鎌倉の海水浴場に絶えずいるようなものだ。

例えば、

「石原さとみのセクシー過ぎるノーバン投球」

「元農林水産大臣○○氏(89)が語る大学時代の恩師の思い出」

という2つの見出し記事がPCやスマホのディスプレイに並んでいる場合、おそらく多くの人が石原の方をクリック(あるいはタッチ)するのではないだろうか。それは若い男性においては特に顕著であるだろう。

しかしこれと似た状況である鎌倉の海水浴場で、「私」は、「ぴちぴちギャル」ではなく、「先生」をクリックしたのだ。そして、そこからこの『こころ』という、出版から一世紀以上経った現在でも多くの読者を魅了してやまない、物語は始まっていくのである。

『こころ』の冒頭は、男の性(さが)を乗り越えた、「先生」という一見味気のないところからでも、興味深い物語が展開し得ることを教えてくれる。 

もちろんそれが「ぴちぴちギャルの先生」であってもいいのではあるが。

★★★

 じっくり読み、じっくり考えれば、何でも面白い。

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)