謹んで、ここにご報告させていただきます。
以前、古典エッセイイストの大塚ひかりさんが訳された『源氏物語』を読み始めたのですが、いつのまにか挫折していました。
瀬戸内寂聴さん訳の源氏物語にも挫折した過去があるので、2回目の敗北ということになります。トルストイの『アンナカレーニナ』は2回目の挑戦で読破できたことを思うと、非常に悔しいです。
↑この以前の記事で、
これがまた楽しい現代語訳になっているのです。読み始めてすぐに、読み通せそう、と直感しました。
などとスピリチュアルなことをほざいたわりに、6巻のうち3巻の中盤あたりで、今、しおりが止まっています。紫式部ならこの止まったしおりを見て長編古典に挑んでもろくも砕け散るはかなさを和歌に詠むところですな。
とはいえ、古典かつこれだけの長編となると、挫折する方も多いはず。僕は少なくとも2人、この源氏物語を挫折した経験のある著名人を知っています。
1人は、臨床心理学者の故河合隼雄さん。
恥ずかしいことであるが、私は長い間『源氏物語』を読んだことがなかった。若いときに、人並みに挑戦ーーと言っても現代語訳であるがーーを試みたが、「須磨」に到るまでに挫折した。青年期にはロマンチックな恋愛に憧れていたので、それとまったく異なる男女関係のあり方が理解できなかったのである。
(『源氏物語と日本人』 by河合隼雄 (講談社+α文庫)より)
もう1人は、哲学研究者の内田樹さん。
ある出版社からの「人生の中で一度は読みたい未読の本」という企画に関して、
たぶん『失われた時を求めて』と『ユリシーズ』と『源氏物語』がトップ10にランクインしていると思う。もちろん『大菩薩峠』も。これはいずれも私自身未読でいつか読まないとなあと思っている本なのである。理由は「長い」というだけではなく、「一度読み始めたが、読み続けられなくて途中で断念した」という事実がトラウマ的経験としてあるからである。 いずれについても、途中下車した個人的にいちばん大きな理由は「焦点的人物に感情移入できない」ということではないかと思う。
ということを書かれています。
(描かれた)「男女関係のあり方が理解できなかった」、「焦点的人物に感情移入できない」というのはすごくよくわかります。
回転寿司の寿司を選ぶように次々と女をピックアップして、「愛してるよ」的なことをつぶやく主人公光源氏。
現代的な視点でみると、「んなアホな」レベルの恋愛模様です。まさか当時の人々は今の人がハリウッド映画を楽しむようにその「んなアホな」を楽しんでいたのでしょうか?
んなアホな。
もう一つ、源氏物語の挫折要因となり得るものを挙げるとすれば、「状況の把握しにくさ」ですね。
匂わす程度の書き方が多くて、鼻が悪いと状況が理解できないこともしばしば。そういう意味で、今の日本以上に「日本的」だなと思いました。
よく欧米の人が、日本人は何を考えているのかわからない、と不思議がったりしますが、その感じに似ているのかもしれません。
日本人は日本人なりの話法で自己主張しているのですが、欧米の人々がそれを把握するのはなかなか難しい。
日本人「せっかくいただいたのに腐らせてしまうのもあれやから・・・」
欧米人「「あれ」ってなんやねん!」
それと同じように、現代の日本人が源氏物語話法(あるいは平安貴族話法)で述べられた状況を把握するのは、ちょっと苦労します。
日本人の「あれ」を理解する能力も、明治維新以来の近代化によって退化してしまったのかもしれません。
すなわち、現代の日本人は源氏物語に対して欧米人なのです。
というわけで、漫画なら読み通せるかも、と思い、漫画家の大和和紀さんによる『あさきゆめみし』を密林(Amazon)でゲットしました。
マンガ版源氏物語です。
河合隼雄氏が青年期にたどり着けなかった「須磨」(12帖)を軽々と通過し、今は「柏木」(35帖)地点にいます。
普通に読めます。
ていうか、
ていうかー(女子高生風)、
マンガ版の方が面白い・・・
orz
まあ、マンガが悪いというわけではないのですが、ちょっとくやしいです。「さすがに漫画家にはあの源氏物語の深淵な世界は描ききれなかったようだな」的なことをさらっと言えたら教養人みたいでカッコよかったのに、「めっちゃわかりやすいやん。明石の君ちゃんキャワイイ〜」じゃ普通のオタクです。
ま、
でもそれでいいんです。
源氏物語だって結局は娯楽。「楽しむ」というのが本来の目的です。難しい顔をして源氏物語を読むのは、1000年後の自称教養人が吉本新喜劇を難しい顔で観るようなものでしょう。