仏教伝来と崇仏論争〜古代飛鳥時代のミーハー、蘇我氏〜

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日本人の多くは仏教に日本の伝統的な宗教として割と肯定的な評価を与えていますね。でも最初からそうだったかというと、そうでもないんですね。

朝鮮半島から日本へ仏教伝来

仏教は538年(仏教伝来「ご参拝」の語呂合わせが有名)に朝鮮半島の百済(くだら)から伝わりました。百済の聖明王(せいめいおう)から倭国(わこく)の欽明(きんめい)天皇に仏像や経典(きょうてん)が送られたとされています。

でもそれですぐ、「おぉ、なんと尊い教え・・・ありがたや。それに今までにないそのファッショナブルな髪型、パンチパーマ・・・いと尊きかな」となったかというと、なりませんでした。

「仏教賛成?!反対?!」の崇仏論争(すうぶつろんそう)

ではどうなったかというと、仏教賛成派と仏教反対派の争いになりました。当時、倭国の大和朝廷(中央組織)の下には二つの豪族(有力一族)、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)がありました。そして、蘇我氏は仏教賛成派、物部氏は反対派でした。

蘇我一族「仏教賛成!だって中国大陸とか朝鮮半島の進んだ国はみんな仏教信仰しとるやん。わいらもあんな文明国になりたいわ」

物部一族「仏教反対!そんなうさんくさい髪型した外国の神なんて拝(おが)んだら、古来日本の神々ブチギレやぞ、やめとけやめとけ」

この争いは2世代にわたって長く続きます。仏教という新しい思想を受け入れるには相当なアレルギー反応があったんですね。

仏教争い1代目は、

蘇我稲目(そがのいなめ)VS  物部尾輿(もののべのおこし)

2代目は、 

蘇我馬子(そがのうまこ)VS  物部守屋(もののべのもりや)

です。そして最終的に勝者となったのが、「仏教ばんざーい」の

蘇我馬子 

でした。

蘇我一族と物部一族の特徴 

蘇我氏がどういう一族だったかというと、大和朝廷(やまとちょうてい)の財政の管理をしていた人たちでした。お国のお財布のひもを握った一族だったんですね。

そして、中国大陸や朝鮮半島からやって来た人々、いわゆる渡来人(とらいじん)と仲が良かった人たちでもあります。

渡来人から大陸や半島のお話を聞いて、「ええ、海の向こうではファッショナブルな髪型をしたスゲえありがたい像があるの?!」みたいなこともあったのかもしれません。

蘇我氏・・・お財布のひもにぎってる、外国人の友達多い、ちょいちょいドヤ顔で海の向こうの意味不明な言葉使って鼻につく(想像)

一方物部氏は、伝統的に武器の製造や管理を担当していた人たちです。治安維持や国防に大きな役割をになっていたんですね。

物部氏・・・治安維持、平和担当、武器キラキラーん。

奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)という神社に物部氏の先祖が今でも祀(まつ)られています。369年に百済の王から贈られた七支刀(しちしとう)と呼ばれる祭祀用の剣(つるぎ)も存在するそうです。ししとうじゃないですよ。

仏教を受け入れることで倭国は文明国家へと脱皮を果たした

その後、馬子により建てられた仏教寺院、飛鳥寺(あすかでら)は、現在、日本で最古の本格的な仏教寺院となっています。現在の奈良県明日香村にあります。 

飛鳥寺より前に建てられた百済の王興寺(おうこうじ)とつくりが非常に似通っており、収められた装飾品の模様なども共通していることから、百済の技術者の力を借りながら建てれたとされています。 

立派な仏教寺院というのは文明国家の象徴みたいなものだったので、その完成は当時としては非常に意味のあることでした。

こうしてみると、飛鳥時代の「仏教伝来(538年)→大化の改新(645年)→律令国家の完成(701年)」の流れと、のちの明治維新とは、先端技術、先端思想を知る外国人の協力を得ながら文明化のために必死に頑張ったという点において、共通したものが感じられますね。

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この角川のシリーズを読んで初めて日本の歴史を「目撃した」気がしました。

今までの文字の羅列(られつ)はいったい何だったんだ、という気持ちです。興味のある方はぜひ読んでみてください。