ブログ運営で普通の人が炎上によらず人を集めるには「何を」ではなく「どう」提供するかで頑張るのが得策なようだ。

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今日、ある会館の前を通った。

たくさんの人がぞろぞろと中から出てきていた。どうやらある音楽家の演奏会があったらしい。それほど有名ではなさそうだが、かといってまったく無名という訳でもなさそうな音楽家。ブログを書き始める前なら、ライブあったんだな、で終わるところだが、ブログ奮闘中の今は違った。「これだけの人を集められるってすごいよなあ」と感心してしまった。

ブログをやっていると、人に自分の生産物を観てもらうことの大変さが、よくわかる。もちろん世間で話題になっているネタを提供するなど、一種のテクニックによって一時的に人を集めるのはそれほど難しくはない。でも、自分を前に出して人を集めるというのは本当に難しい。

もっと正確に言うと、自分が主体となって「善いこと」をし、人を集めることは難しい。なぜなら、世の中の多くの人が日々、生きるために、あるいは対価(お金)を得るために、社会に何らかの便益をもたらすことにしのぎを削っているからだ。「普通の善いこと」をしても中々人は集まらない。基本的に「善いこと市場」レッドオーシャンなのだ。

 でも、逆に「悪いこと(市場)」は、これはちょっと適切な言い方ではないかもしれないが、ブルーオーシャンだ。

例えば、全裸で三輪車に乗って表参道を突っ走れば、人は集まる。いや、そこでは人は離れるかもしれないが、メディアが跳び付き、記事や動画コンテンツがばら撒かれ、ものすごい数の人がそれらに注目する。

なぜそんなことになるかと言えば、全裸で公共の場に出るということは、法律に反することで、したがって世の中の大部分の人はそんなことはしないからである。競合相手がいないのだ。

もちろんその行為自体は、法律に反したことだから、本人は市場で勝ったわけではない。そして本人の足場にも市場は成立していない。社会復帰後、『なぜ私はあの日、全裸で三輪車に乗って表参道を突っ走ったか』みたいな本を出版して、経済的利益を得るかもしれないが、それはまた別の話だ。

 今書いた例は、極端な例だが、ブログを運営していると、そんな「悪いこと(市場)」に足を踏み入れたい誘惑に駆られることがよくある。

いくら頑張って自分なりに善いと思う記事を書いても、思うように人が読んでくれなかったり、そんな手応えのない努力が続いてしまう時だ。そんな時は、何かやらかして炎上を狙おうか、みたいな考えがふと頭に浮かんだりする。『全裸になってバーに行き、そこにいたおっさんに「お前の着ている服と靴とバイクがほしい」って言ってみた』みたいな記事を作ろうか、という感じで。

もちろんそんなことはしないが、法律に反することに限らず、グレーなことをしたり、ものすごく角(かど)のある記事を書いて人の注目を集めようとする人はけっこういる。やはり「悪いこと(市場)」やその周辺は、ブルーオーシャンで楽だから。

 けれど、今日、音楽家の演奏に集まった楽しそうな人たちを眺めていて、やっぱり「善いこと市場」で人に集まってもらえたら最高だろうな、と思った。集まった人も気持ちが良いし、創る側も気持ちが良いはずだ。

 でも、「善いこと市場」でも、「新しい何か」を一から創り出して人を集めるのは自分には出来そうにない。今の日本のような成熟した社会では、かなり出尽くしている感があり、「本当に新しい何か」を作り出すことは簡単ではない。才能ある人にはできるだろうが、少なくとも自分にそこまでの才能はなさそうだ。

「新しい何か」で勝負できないならば、今すでにある何かを「どう提供するか」で頑張るしかない。Whatではなく、How。ブログの場合で言えば、「どう伝えるか」だ。

Howの領域でイノベーションを起こすのは、たぶんWhatよりは容易だと思う。イノベーションみたいな大層なものでなくとも、「ひと味違った」でもいい。「新しい愛情」を創れって言われたら途方に暮れてしまうが、「新しい愛情表現の仕方」を創れ、ならまだいけそうだ。

「お前のためにならこのミンティア だって一気食いできる!!」、パクッ、「すーはーすーはー」みたいなのも、まだ誰もやっておらず、すでにイノベイティブな愛情表現の仕方かもしれない。

愛情表現は、ハグしたり、何かをプレゼントしたり、ちょっとしたことを褒めてあげたり、その仕方はいろいろ、無限大にある。そしてその開拓はたぶんWhatよりは簡単だ。

僕のような普通の人は、そのあたりで頑張っていくしかないと思う。