大人が本気で読書感想文を書いてみた。~夏目漱石の『こころ』が教えてくれる「好奇心の力」~

スポンサーリンク

 

yaseteru.hatenablog.com

 ↑前回の読書感想文の続きです。新潮文庫の『こころ』P10~12までの読書感想文。

ではさっそくどうぞ。

☆☆☆

「最近、交友関係に新しい風が吹かないんだ」と、タピオカミルクティーをしゅるしゅると吸いながらぼやいている人に朗報だ。夏目漱石の『こころ』は、そんな悩みの解決に関して、示唆を与えてくれる小説である。

友人に誘われて鎌倉へ海水浴に来ていた「私」はそこで、「ぴちぴちギャル」ではなく、「先生」に目を付けた。といっても、「私」は直接に「先生」の方へ眼球を動かしたわけではない。「私」と「先生」との間にはまず「西洋人」の存在があった。

特別の事情のない限り、私は遂(つい)に先生を見逃したかも知れなかった。それ程浜辺が混雑し、それ程私の頭が放漫であったにも拘(かか)わらず、私がすぐ先生を見付出したのは、先生が一人の西洋人を伴(つ)れていたからである。

 (『こころ』夏目漱石著P10より 新潮文庫)

書生である「私」は、どうやら以前から西洋人というものに興味があったらしい。というのも、「私」はこの二日前にも、別の海水浴場で西洋人たちが海に入る様子を眺めていたからだ。その時に見かけた西洋人たちは、男も女もみな、肌身を隠して海水浴をしていた。

ところが、「先生」が連れていた「西洋人」は、着ていた日本の浴衣も脱ぎ捨て、猿股(さるまた)一つで平気でいた。それが「私」には不思議だったのだ。その風変りな西洋人の存在をきっかけに、「私」の関心はすぐに「先生」の方へも向かった。

「好奇心」は「力」だと思う。タピオカミルクティー片手に「出会いがない」とぼやいている人は、実は「好奇心がない」のだ。「出会い」は「好奇心」の向こう側に用意されているものであり、「好奇心」を貫けば自ずから付いてくるものである。そのことを『こころ』は教えてくれる。

私は単に好奇心の為(ため)に、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿を見守っていた。

(同書P11) 

注目すべきは、ここからの書生(「私」)の行動力だ。翌日、「私」は、退屈だったこともあり、「先生」を見かけた海水浴場の掛茶屋を、時刻を見計らい、再び訪れる。今回は「先生」は一人でやって来た。「好奇心の力」は「私」の交友関係に風穴を開けようとしていた。

先生が昨日の様に騒がしい浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後が追い掛けたくなった。

(同書P12)

この衝動の対象がぴちぴちギャルでなかったのは、現代的な視点でみても、幸いだ。というのも、書生(「私」)のその後の行動は、相手に警戒感を与えかねないものだったからだ。

私は浅い水を頭の上まで跳(はね)かして相当の深さの所まで来て、其所から先生を目標(めじるし)に抜手(ぬきで)を切った。

(同ページ)

抜手とはクロールに似た日本古来の泳法だが、「私」が抜手を切ると「先生」はどういうわけか、あらぬ方向から岸へ帰り始める。犬かきならまた違った結果になったかもしれない。が、とにかくこの時は「先生」と言葉を交わすこともなく終わった。

それでも、「私」のこの行動力は、注目に値すると思う。 

鎌倉の夏の海辺で、ぴちぴちギャルでもない「先生」に、年若いこの書生は、抜手を切った。「先生」に接近するエンジンとなったのは、彼の純粋な「好奇心」だった。ある西洋人への、そしてその西洋人を連れた「先生」への「好奇心」。もちろん、この「先生」の顔をどこかで見たことがある気がする、という既視感があったということもある。しかし、それも広い意味では好奇心といえるだろう。

僕は、「私」の「抜手」に、決まりきったパターンを繰り返す退屈な日常を打破するかもしれない「好奇心の力」の強さを知った。

★★★

じっくり読み、じっくり考えると、滋養100倍。

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)