韓国映画の傑作『猟奇的な彼女』の感想〜ラブコメディっぽくも本当は怖い映画〜

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昨晩、韓国映画の『猟奇的な彼女』を見ました。2度目になります。以下に感想を書いてみますが、一部ネタバレを含みますので、そのつもりでお読みください。

『猟奇的な彼女』は、平凡で気の優しい大学生のキョヌが、ある日地下鉄の駅で見かけた、美人ではあるけれどちょっと暴力的で奇抜な、でも根は善良な「彼女」に徐々に魅かれていく物語です。 

全体的に、ちょっと変な夢のような、現実から微妙に遊離した世界観があります。何ていうか、この映画では、猟奇的な「彼女」とキョヌが世界の中心で、この二人の見ている世界が「普通の現実」で、逆にこの映画を見ている人が普段生きているような「普通の現実」が「ちょっと変な現実」になります。だから、もっと勉強を頑張るように励ますキョヌの父母や、キョヌとの交際をやめさせようとする「彼女」の父母が、ちょっと滑稽で変に描かれます。現実では、父母側の世界が「普通」と考えられていますけど。

さてこの映画、一応、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、最後はキョヌと「彼女」が結ばれてハッピーエンドのように描かれるのですが、正直いまいちピンときません。なぜかというと、その後に二人が順調に交際を続けてめでたく結婚し、幸せな夫婦生活を送っていくというイメージがちっとも湧かないからです。温厚で優しいキョヌが、根は善良でもあれほど気性の激しい女性にいつまでも耐えていけるようには思えません。「彼女」にしても、もともと本当に好きだったのは死んだ以前の恋人であり、キョヌにその影を見出したにすぎません。

そんな二人が、本当に幸せになれるのでしょうか?

色々考えてみたのですが、この作品はたぶん、ロマンティックコメディやラブコメディ映画ではないのですね。じゃあ何かというと、

サイコスリラー映画です。

具体的には、精神的に健全で平凡なキョヌが、恋人を失い心に深い傷を負った「彼女」にアメとムチによって徐々に洗脳され、そのコントロール下に置かれていく物語です。「彼女」の「アメ」とは、その女性としての美しさであり、時折みせる優しさです。一方「ムチ」は身体を使った暴力や「死にたいの?」や「コーヒー飲みな!」等の暴言です。 

「アメ」と「ムチ」によって、キョヌは徐々に「彼女」にのめり込んでいき、やがては彼女なしではいられなくなります。普通の人々が、時に優しく時に厳しいやり手の宗教家や各分野の権威に、洗脳され、徐々に精神的に依存していく過程そのものですね。

キョヌも始めは、彼女の「善良な介抱者」にすぎませんでした。地下鉄で酔いつぶれていた彼女をひょんなことから介抱することになり、その時点ではキョヌはまだ「彼女」を「管理する側」でした。ところが、その介抱される側の「彼女」は実は、モンスターペアレントならぬモンスターペイシェント(怪物患者)だったのです。やがて、アメとムチによって、介抱者キョヌと患者である「彼女」の立場は逆転していき、キョヌは「彼女」の支配下に置かれていきます。

だから、物語の最後にキョヌと「彼女」が手をつなぎ結ばれるシーンは、実は、涙ほろほろの感動シーンではなく、ぞっと寒気のする後味の悪いシーンであるはずなのです。

『猟奇的な彼女』は一見ハッピーエンドのラブコメディっぽくも、ちょっと怖い映画だったんですね。