塾講師の求人を探す前に読みたい塾業界の将来性

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ここ何年か、語学力の下支えとして、幅広い知識、教養が重要だと考え、積極的に勉強に励んでいます。今はYouTubeにアップされている動画を使って高校物理を勉強しています。本当に分かりやすい講義で、こんなのがネットで無料で公開されているなら、学校や塾は必要ないではないかと一時思いました。でも、よく考えて、それはちょっと短絡的かな、と思い直しました。

今日はそのことについて書きます。

インターネット上の無料講座は飛び抜けてわかりやすい

確かに、ネットで無料で観れる講座はどれも分かりやすいです。

知識や環境さえあれば誰でもネット空間に講座を投稿し、公開することができます。

そして、人気のある講座が検索した時に上位に表示されます。つまり、ネット上で厳しい競争にさらされ、それを勝ち抜いた、分かりやすい、面白いものがトップに躍り出る仕組みになっています。

全国競争※を勝ち抜いた、質の高い講座なので、分かりやすいのは自然なことです。

※ネット空間では世界中の人が参加できますが、普通は、良し悪しを判断する視聴者は日本語による講座を観ると思うので全国競争としました。

インターネット時代の塾や学校の存在意義 

ネットで無料公開されている高校数学や高校物理の講座を受けてみて、これらの講座は、一般的な学校や塾の授業よりもはるかにわかりやすい、と感じました。

もちろん、個別にみると、ネットのものより面白く分かりやすい授業が行われている学校や塾もあるはずですが、平均的にみると、ネットで上位に表示される講義の方が分かりやすいと思います。

これは自分が学生時代に受けた学校や某有名塾での授業を思い返して確信しています。

では、人間関係を学ぶ、などはここでは置いておくとして、あくまで知識習得の観点から、わざわざ月謝を払わなければならない塾や学校に通う意味は、どこにあるのでしょうか。

インターネット上の講座になくて、塾や学校にあるもの、それは「先生の強制力」です。

普通の子供は放っておいても勉強しない

分かりやすい高校物理の講座をYouTubeで観ながら、こんなのあったら学校や塾ってもういらないよな、とはじめは思いました。でもよく考えてみたら、普通の子供は、いくらネットに分かりやすい講座がゴロゴロ転がっていても、自分からそれらを観たり読んだりして勉強する、なんてことはないですよね。

中には、かつて良い成績をとって親や先生から褒められ、それが嬉しくて自ら進んで勉強するようになった、なんて子がいることも事実です。が、普通は、勉強しないと親や先生から怒られるだろうという予測それに伴って生じる恐怖の感情によって、机に向かい、いやいやながらも勉強する、といった具合でしょう。

IT時代にも塾講師や学校の先生は必要 

そうした実情を踏まえると、塾や学校にも十分に存在意義があるとわかります。

子供を机に座らせ、授業に集中させ、問題を解かせ、解けたら褒めてあげ、解けなかったら再度指導する、このようにして子供の学力を向上させるには、目の前にいる生身の人間による強制力あるいは人間力が必要です。

講義が再生中のパソコン画面の前から子供が離れると、パソコンが「こら!ちゃんと授業を聞きなさい!」と叱ってくれる仕組みがあったとしても、パソコンの電源抜くか、スイッチ切れば、子供は好き放題です。

パソコンやタブレットで学ぶにも、親のこわ〜い監視の目が常に必要になります。

塾をはじめとする教育業界の将来性

少子化の進展により、教育業界については悲観的に語られがちです。たしかにここの業界動向に関する調査からもわかるように、学習塾の市場規模は1998年以降、ほぼ横ばいです。

日本の人口動態を考慮すると、今後も教育業界の縮小圧力が強まる可能性は高いです。しかし、市場全体として緩やかに縮小していくとしても、個々の教育機関あるいは個々の先生(塾講師、家庭教師など)が、商売的に成長していくことは十分に可能だと考えています。なぜなら、これからは今以上に教育の重要性が増し、また、教育サービスが、子供、若い人だけが消費するものではなく、大人、社会人も貪欲に消費するものになっていくことが予想されるからです。

これからも、AI(人口知能)など、テクノロジーの進化により、単純労働は機械、ロボットに置き換えられていきます。仮に置き換えられないとしても、単純労働によって造られる製品は中国やミャンマー、インドなど、人件費の安い国が生産において優位なので、日本では製造されなくなります。つまり、それらに関わる雇用がなくなります。

そのかわり、成熟した先進国である日本では、高付加価値なサービスを提供できる高度な教育を受けた人材に対する需要が伸びていきます。つまり、専門知識や専門技能といったものが重要になる社会になります。こういうことは、何年も前に、すでに経営学者のピーター・ドラッカーが『ポスト資本主義社会』 という作品の中で指摘していました。本書から、少し引用してみます。

(中略)・・・いまや市場を支配しているのは情報資本主義である。

物をつくったり運んだりする産業ではなく、知識や情報をつくったり運んだりする産業が、経済の中心となった。製薬業が生産しているのは、実は知識である。ピルや軟膏は知識の塊以外の何ものでもない。コンピュータ、半導体、ソフトウェアなど情報処理機器を生産する産業や、電気通信産業が生み出しているものもそうである。映画、テレビ、ビデオなど情報の生産者や流通業者が扱っているものも、そうである。

しかも先進国では、これら知識に関わる企業よりも、知識に関わる非営利セクター、つまり教育や医療に関わるNPOが、はるかに速いスピードで成長している。

(『ポスト資本主義社会』P229より)

彼はこうした社会を知識社会と呼び、そこで中心になって働く人々を知識労働者と呼びました。そして、知識社会において、学校に求められる要件の一つとして、「すでに高等教育を受けた者、および高等教育を受けられなかった者に門戸を開く」と書いています(同書P250)。例えば、大学卒業後、一度会社に入ってサラリーマンになった人が、会社を辞めて医療専門学校に入り直す、といったことですね。

先に、「教育サービスが、子供、若い人だけが消費するものではなく、大人、社会人も貪欲に消費するものになっていくことが予想されるからです」と書いたのは、社会人経験者の学び直しといったことが、日本でも特に珍しいことではなくなってきているからでした。

以上のような社会背景を踏まえると、社会人の教育に対する潜在的な需要を掘り起こすなどして、個々の塾、個々の先生などが、活躍し、成長していくことは十分に可能だといえます。例えば、トライさんの「大人の家庭教師」なんて良い例ですね。

今後の塾は、これまでのように若い現役の学生に定期テスト対策や受験対策を施すというだけでなく、大学や大学院、専門学校に入学することを希望する、すでに成人した人々への教育サービスも提供する、ということが多くなっていくはずです。